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犬塚の歴史
小山第三中学校近くで土器が発掘されたり、住居群を囲む環濠が発見された下犬塚遺跡からは縄文時代から鎌倉時代に及ぶ集落の址が発掘されるなど古くから人が住んでいました。 犬塚は、奈良時代以降寒川郡稲葉郷に属し、平安後期に小山氏が小山一帯を支配するようになり、乱戦の地になりました。犬塚の地名が歴史に登場するのは、天文5年(1536)あたりからと栃木県史は伝えております。小山氏滅亡を経て徳川初期には、元犬塚(水戸線北側)と犬塚新田(同南側)に分かれ明治3年3月20日に合併して現在の犬塚の姿になっています。 徳川時代は、幕府、古河藩、旗本加藤家の領地と変貌を重ね(この他一部壬生藩領もあり)明治に至ります。 明治になる直前の、慶応4年(1868)4月16日の正午も歴史にその名を刻んでいます。大鳥圭介率いる旧幕府軍と官軍が激突した戊辰戦争の中でも、その激しさで語り継がれているのが野州戦争ですが、その中で、笠間藩を主力とした官軍500名と幕府別働隊の300名が犬塚で遭遇し戦闘に至ったと歴史書は伝えています。 明治18年当時は、戸数31戸で人口は約200人でした。 |
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250年以上前に建設されたほうきょういん塔 |
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伝統ある民俗行事・鶴亀飾り |
300年以上の歴史がある・十九夜様 |
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