トホホ骨折記
30年ぶりに人生2度目の骨折をしちまった。何かの参考に骨折の顛末と治療の経過を記録しておこう。
人生最初の骨折
本題の前に、昔の骨折について触れておきましょう。
同じスカイスポーツでの骨折だが、30年前の骨折は今回のとは全く異なり、ハンググライダーのカラビナ掛け忘れという単純なチョンボによる事故でした。なのでハンググライダーでの事故なのに飛んでもいないお粗末な次第でした。
1984年2月5日(日)にみかも山にハンググライダーをやりに行って、ランチャー台(今は撤去)からテイクオフしたらフックが掛ってなくてハングもろともランチャー台の下に転がって左腕の肘を骨折したのでした。ランチャー台の後ろには仲間が二人いたのですが、おしゃべりしていて気が付かなかった様です。事故った直後に仲間に佐野厚生病院に連れて行ってもらってレントゲンと左腕にギブスをしてもらい。2月10日(金)に小山市民病院に入院して肘の欠けた骨を摘出する手術をし、2月14日(火)に4泊5日で退院しました。
なぜチョンボしたかというと、ハングの高高度100本目の馴れに加えて、その週は徹夜で学会論文を作成して提出してやれやれだったのが原因だったのでしょう。
事故から2か月後の4月15日(日)には吹っ切る為に意地の復帰フライトをしたのですが、それ以降はプレフライトチェック項目の確認徹底と、フライト直前に「行きます!」の声を出して皆の目線を引き付ける様に習慣化したのでした。
人生2度目の骨折の経緯
月日は流れ、フライトもハンググライダーからパラグライダーに移行してハングとパラのダブルでクロスカントリーパイロット証も取得し、最初の骨折事故から丸30年経過した2014年4月13日(日)のみかも山。
当日の天気図を見ると、北に高気圧があって栃木県南部は晴れの東風で、みかも山エリアは絶好のフライト日和です。
多くの仲間がみかもに集まり11時ごろみかも山からテイクオフ。いい具合にサーマルに乗ることができエリア内をウロウロしているうちに龍ヶ岳上空で1500mを越え、みかもエリアでの自己最高高度記録を更新。1500m上空からは、もう一つのホームエリアである7km離れた大平エリアが目の下に見えたのでアゲインストの風だが大平エリアを目指したのでした。
龍ヶ岳上空で1500m以上あれば大平へ向かう以外に、渡良瀬遊水地アウトアンドリターンを狙うとか、クロカンを狙うのであれば風下に流して渡良瀬川沿いに足利・桐生方面へ行く選択肢があったが、この日は何故か朝から上げたら大平だなと思っていて、テイクオフ前に大平行きの宣言をしていたのだ。
向かい風だったので、大平エリアの野球場上空に到着した頃には大平テイクオフと同じくらいのレベルになり、山の稜線に取り付くのは無理そうだと判断。大平エリアも何百回も飛んでるホームエリアなので熟知しており、経験から言って東風でここから上げ直す選択肢は二つ。沖のグランドサーマルを捕まえる方法と、大平テイクオフ左前方の愛宕山にステイしてサーマルを引っ掛ける方法だ。ただし、東風の場合メインランディングは前山のかぶりがあり荒れるリスクがあるので、降りるのであれば沖に降りるのが無難だ。
大平エリア全景(当日)
当日は、大平エリアはオープンしておらず誰もいないはずだが、上空からクラブハウスを見ると車が一台止まっているのが見えた。みかもアウトアンドリターンができずに大平に降りた場合は帰りの足の確保が必要だし、誰か大平クラブ員がいるのであれば帰りの足が楽だなと思い、愛宕山コースを選択。←これが第一の失敗原因(素直に沖のグランドサーマルを狙うべきだった)
愛宕山を目指したのだが思いのほか足が進まず、早々に愛宕山は断念して沖を目指すことに方針転換。当日、大平エリアがオープンしていないのでメインランディングにいつものでかい吹き流しが立っていない。吹き流しが無くても風向きの確認手段としては、クラブハウスの藤棚の上にインターネットライブ情報用に風向計が設置してあるので、これを確認すれば良い。しかもこの風向計は私が設置したものだ。
ここからは、下の図で分析しよう。フライト時の測定器としてバリオメータのレオナルドプロを携行していたのでそのデータをマッピングしてある。位置はGPSデータで、GPSの高度データは誤差が多いので正確と思われるバリオの方のデータを2秒毎に記載している。
愛宕山に取り付くのをあきらめ前山の高度で藤棚の上の風向計を見ながら沖を目指したのだが、上空から見ると風向計が小さくてイマイチ良く見えない。そうしてE地点に来たら9m/2sのシンクに遭遇。この時点で沖へ行くのはリスクがあると判断してメインランディングに降りる事を決定。
しっかり風向きを確認しようと思い藤棚の上空を通過するコースを選択。←これが第二の失敗原因(東風と分かっているのだから西からアプローチすれば良かった)
D地点で真上から風向計が東を向いている事を今度はしっかり目視確認し、ポッドハーネスから足を出しランディングアプローチに入った。東風で田んぼにランディングする場合早めに東を向くとオーバーしてしまうので、一旦西を向いて右旋回で田んぼにランディングするアプローチラインをイメージ。いつもならこれでバッチリなのだが、C地点でいきなり強いシンクに遭遇。C地点からB地点までの4秒間に18m沈下、平均毎秒4.5mのシンクだ。B地点で北を向いた時には目の前にビニールハウスが迫っていた。もうこうなると選択肢としては、毎秒4.5mの沈下速度でビニールハウスに突っ込むか、または回避動作をするかの究極の二択しかない。地元に迷惑を掛けられないので、当然回避動作を選択。この時点ではシンクで失速寸前でもまだ翼形は保っていたが、右急旋回をしたら右翼がつぶれるのが見え、その瞬間ビニールハウス手前のA地点の耕作していない麦畑に墜落していた。(上の図はA地点がビニールハウスに重なって見えるがGPSの誤差で実際にはビニールハウスに被害は無い。麦畑は正規のランディングエリアだ。)
ちなみに物理法則を用いて落下速度を計算すると、仮に3mからの自由落下で、スカイダイビングと同じ空気抵抗0.24kg/mとすれば時速27kmで接地するが、初速度が毎秒4.5mの沈下が加わると時速43kmで地面に激突した事になる。これを左足一本で引き受けたら誰でも骨折するだろう。もしスタンディングポジションの足からでなくハーネスに座ったままの尻餅だったら、間違いなく圧迫骨折だし下手したら重大な後遺症が残っただろう。
墜落した直後も意識はあって、ずいぶんハードなランディングだったなと思った程度で、体に特に異常はなくてやれやれと思ったのだが、左足を動かそうとすると痛みは無いのだが何かミシミシする感覚があって骨折したなと直感。横たわってハーネスを脱ぎながら風の様子を見たが、特に強い風は吹いておらず穏やかな日曜日の昼下がりという感じだった。あのシンクはいったい何だったんだ?
直後にクラブハウス前に駐車していた車の人が駆けつけて来たが、大平のクラブとは関係ない通りすがりのオジサンだった。オジサンが言うには2m位墜落して、大きな音がしたそうだ。オジサンが救急車を呼ぶかと言うので、いやいや自分で呼びますといって119番に電話して「パラグライダーで2m位墜落した」、と説明し救急車を呼んだ。その後、みかもに連絡して機体の回収をお願いし、自宅に連絡。なるべく、心配掛けない様に落ち着いた声で「救急車を呼んだが命に別状はないケガだ」、と説明したのだが、バツが悪いもんだ。
救急車が来るのと前後してみかもから伊藤さん、西村さん、平山さんが駆け付けてきてくれた。有難いものだ。救急車で搬送する病院を探してくれるのだが栃木市内の病院にはすべて断られ、自宅のある小山市内を当たってもらったが、最初の病院で断られOKをもらったのがなんと30年前に入院したのと同じ小山市民病院であった。後から橋本さんに聞いたら、119番に電話して3mから墜落したと言ったら、ドクターヘリが飛んできて独協病院に搬送されるところだったそうだ。
以上の顛末からして、事故原因を分析すると、
直接的な一次原因は、ランディングアプローチ中に遭遇した強いシンクだ。
だが、そこに至るまでに幾つかの選択肢があって、その何れにおいても事故に向かう方向を選択している。こうなる運命だったのかなとも思うが、それだと教訓にならないので、教訓を述べるとすれば、「春先のランディングは風の急変に十分注意して安全マージンの高い方を選択するようにしましょう。特に東風の大平メインランディングはハイリスクだ!」、となる。
治療経過
伊藤さんに同乗してもらい救急車で小山市民病院まで搬送され、レントゲン撮影したら左足首脱臼骨折で手術が必要と言われ、即時整形外科に入院。30年前と同じフロアだ。まさか、またここに入院するとは!
2日後の4月15日(火)に手術。足だけの麻酔だったが酸素マスクをして深呼吸したらあっという間に寝てしまい手術中の記憶は全くない。気がついたら手術は終わっていた。骨折からここまでは特に痛い思いは無かったのだが、手術した晩は強烈な痛みに襲われた。夜中に点滴の痛み止めをしてもらったらようやく寝ることができた。
手術の部位は、足首の脛骨の折れた部位をボルト止めし、更に粉砕した腓骨をネジ止めしたプレートに骨のかけらを集める、というものだった。ただしこの内容は、退院後に見せてもらった下のレントゲン写真を見るまでどんな手術だったのか知らずに、もっと楽観的に考えていたので、治療が想定以上に長くなってしまった印象だ。
左側が内側の脛骨(けいこつ)、右側が外側の粉砕した腓骨(ひこつ)
ちなみに、手術で体内に埋め込んだ部品の材料代は、1本6,440円の固定用スクリューが9個、84,300円のプレートが1枚で合計142,260円の高価な左足になったのだ。実際にはこれの3割負担で支払うのだが。
翌日から、リハビリの入院生活。薬を飲むわけでもなく、左足以外は元気で、三食完食してリハビリして寝るという退屈した生活だ。クラブの皆さんお見舞いに来てくれてありがとう。
手術直後の図、右足は血栓症防止装置
4月24日(木)、手術から10日目で抜糸。正確にはホッチキスの針みたいのをホッチキスリムーバみたいなので一つづつ外していくので抜鈎と言う。脛骨側(内側)が8本。腓骨側(外側)が12本の合計20本だった。抜くのはチクっとする程度でそんなに痛くなくかった。
入院中、ネットで買ったこの本を読んで病室の窓から空を眺めてたので、雲の種類を覚えてしまった。
外科なので特に薬を飲んだりはしないが、治療らしいものとして超音波治療器「アクセラス」を使用した。これは、1日に1回超音波を骨折部に20分間当てると骨癒合までの日数の短縮が期待できるというものだ。機械はレンタルで、入院中から使用して結局約4か月毎日使い続けた。 これの効果が有ったのか無かったのかは良く分からない。
足首が骨折しているので体重がかからないような装具を作ってもらう。装具が出来れば退院できるという事で、4月25日(金)に型取りし一週間後の5月2日(金)に完成。これで退院できると思って試しに歩いてみたら脛の当たり具合が悪く皮がむけてしまうので調整してもらい、足になじんだ事を確認してからようやく5月15日(木)に退院した。丁度1ヶ月の入院でした。退院後は週に1度のリハビリと不定期のレントゲン撮影の為の通院となる。
退院の翌日には装具を付けて松葉杖をついて東京・木場の職場へ1ヶ月ぶりに出勤。こんな派手な格好して地下鉄に乗ったら、流石に皆さん優先席を譲ってくれた。松葉杖では、階段もエスカレータも厳しいのでエレベータのみを使うコースで乗り換えをするのだが東京駅で東西線の乗り換えはかなり距離があってつらい。こちらはエレベータしか上下の移動手段が無いのだが、どう見ても健康そうな人がさっさとエレベータに乗って先に行ってしまう光景に何度も遭遇。こんな時は、障害者優先って書いてあるだろ、オイオイと思う毎日でした。
オーダーメードの靴、95,500円也
5月20日(火)には装具なしで1/3荷重の許可が出た。このペースだったら、完治も早いと思ったのが、とんでもない勘違いだった。腓骨の粉砕した部分がなかなかくっつかない。5月26日(月)の診察で、足首がぶれないように下の写真の様な簡単な装具を付ける事になったが、荷重は変わらず松葉杖で1/3荷重のままだ。
ちなみに松葉杖はレンタルで、2本セットで1日60円でした。
1/3荷重というのは、体重60kgであれば20kgまで骨折した足に荷重をかける事ができるのだ。骨は荷重を掛けないと成長しないが、荷重をかけすぎると壊れてしまう微妙なバランスが必要だ。20kgの荷重という事は、歩行中右足を浮かした状態で残りの体重を左右の腕で20kgづつ分担する事になるので長距離を歩くと腕が疲れる。
幸いデスクワークなので机にたどり着けば仕事に支障は無いのだが、約一ヶ月松葉杖通勤をしてると荷重がかかる手の平と両腕肩関節が痛くなってとても耐えられなくなって来る。6月30日の診察では1/2荷重の許可が出たが、骨の成長が思わしく無かったようで7月7日(月)の診察では次のレントゲンは1ヶ月後だと言われつらい通勤を思いショックを受ける。1/3荷重と1/2荷重では実質的にはそれ程違いがなく、通勤にひたすら耐えに耐えて1ヶ月後を待ち、8月4日(月)にレントゲンを見る。ようやく骨が出来てきたようで、いきなり松葉杖無しの全荷重の許可が出た。ドクターによると、もしこの時に期待通り骨が出来ていなかったら再手術を検討するギリギリの所だったそうだ。
こうして、事故から3ヶ月と3週間で松葉杖無しとなったが、その間に左足のふくらはぎがやせ細ってしまい、運動不足で体重が増え、使ってなかった筋肉や膝関節が痛くてえっちらおっちら歩き始めたのでした。しかもすっかり歩き方を忘れてしまい、体重の掛け方が分からなくて歩き方がぎこちない。更に、足首を曲げる角度がまだ戻っていないので下り階段が辛い。
9月2日(月)の診察で軽い運動の許可が出たが、まだ走るのは許可できないとの事。太極拳ならやっても良いとの事だったので少しずつ練習を始めて、10月からは中断していた42式剣の講習会への参加を再開した。さらに、走らない程度でパラグライダーの立ち上げ練習もやり始めたのでした。
そして、待ちに待った10月20日(月)の診察でレントゲンを見たら今まで気がかりだった部位の影が濃くなってるのが確認できたので、ついに通院終了の判定が出たのでした。結局、今回の事故は全治6カ月と言う事でした。
通院卒業して1週間経たないのに、さっそく10月26日(日)にみかもでフライト再開。11月2日(日)には大平でフライトして墜落した場所を見ながらランディングした。当日は安定したコンディションで、事故原因が機体のせいでも操作ミスでもないので思ったほど緊張は無かったが、流石にランディングは無傷な右足で接地したのだ。
懲りないやつだ! しかし、次の30年後は、もう飛んでないので、まあイイか。
11月2日大平でフライト2本目
2014年11月29日校了